・仏教の勧める供養とは?
前回のブログ「そもそも、四十九日の供養とは」で取り上げた、スマナサーラ長老の著書『死後はどうなるの?』(角川文庫)では供養について、以下のように書かれています。
仏教の勧める供養とは、自分自身が精神的に徳を積んで清らかなこころの波動をつくって、その波動の影響をほかの生命にあげることです。仏教用語で「回向」ということばを使っています。
なぜ、残された者が徳を積んで回向することが、故人の供養となるのでしょうか?
遺族は善行為をして功徳を積みます。功徳を積むことで、遺族は清らかなこころを持ちます。その善行為が自分のために行なわれた供養だと知った故人は喜びます。喜ぶことで、故人に清らかなこころの波動が生まれます。清らかなこころの波動は善い業となります。その業の力によって、先祖は餓鬼道から抜けられるのです。
「清らかな波動」とか、「餓鬼道」とか、ちょっと引いてしまう表現もありますね。私も100%受け入れているわけではありませんが、供養自体が科学でわりきれる話ではないので、まずは、そのエッセンスを受け取ればいいのではないでしょうか。
残された家族が善いことをして人として成長するのは、もし故人が見ているなら喜ぶことは首肯けます。とりあえず、そんなところの理解からで、いいのではないかと思います。
・徳の高い行為ランキング
本書によると、回向の対象となる善行為にも、徳の高い順番があるそうです。
1、瞑想をして、こころを清らかにすること
2、説法を聞くことや、説法をすること
3、生命を助けてあげること
一番高い功徳を積む行為を、人のために何かするのではなく、自分のこころを清らかにする瞑想としているのが、テーラワーダ仏教らしいですね。菩薩行を重視する大乗仏教ではこの順番がどうなるのか、ちょっと気になるところです。
ところで、テーラワーダ僧である長老は瞑想をあげられていますが、心を清らかにするのがポイントなら坐禅や読経、念仏やお題目、マインドフルネス・プラクティス、そして持戒や布施、さらにボランティア活動など、その方が取り組まれている実践は、(私の推測ですが)どれも善行為になるのではないかと感じます。
故人を供養するために、頭を丸めてお寺に籠るとか、仕事や家族から長期間離れて聖地巡礼などをしないでも、これらは日常生活を送りながらできることなので、ありがたいですね。
・回向の言葉を言わないと、故人に届かない
とは言え、ただ善行為をすればいいのではなく、それを故人に届けるには回向の言葉が必要なようです。
供養が成立するためには、この「回向したい」という気持ちも必要なのです。ただ形式的にやっても、自動的にはいかないのです。
パーリ語では(回向の)決まった文句もあります「この功徳が親族に届きますように。親族が幸福でありますように」と、こころを込めて唱えるのです。
私は瞑想中心の生活をしていた修行者時代は、瞑想の後に、先祖から縁者、さらには生きとし生けるものまでを対象に回向の言葉を唱えていたのですが、日常中心の生活にもどり実践者になってからは、瞑想に使える時間も減り、いつの間にか回向を省略していました。
私は瞑想をすることで、自分もまわりの人も楽になりましたが、それを先祖からはじまり、生きとし生けるものにまで広げられたら、さらに嬉しいことです。
これからは四十九日の間に限らず、瞑想の後にはまた回向をしていこうと思います。
もちろん回向をしたことで、一切衆生が本当に幸せになるかは、私には断定できません。
でも、そのような優しい心、厳かな心、謙虚な心を持つことで、自分が穏やかに、暖かくなるのなら、それは自身にとっても、そのような人といられる周りの人にとっても、よいことですね。それは巡って、一切衆生にポジティブな影響を与えていくのではないでしょうか。
次は、実際に父の供養に関して、仏教実践者としてどのようなことをしているかを書いていきましょう。