末席で参加しているチベット仏教の勉強会で、お父様の供養を四十九日の間、自分でもされたチベット仏教実践者が何人もおられて、仏教実践者として姿勢を正されたことを、以前このブログで書きました。
でも、父の供養を自分でするにしても、どのように考え、具体的にはどうすればいいのでしょうか。
・四十九日の供養は、大乗仏教だけのもの?
そもそも、四十九日とはどんな意味があるのでしょうか。
大乗仏教では、人が死んでから次の生を受けるまでが四十九日(中有)とされ、この間には生前の裁きを七日に一度受け、それにより来生の行き先が決まるとされています。日本の仏教の多くの宗派では、この期間に故人の冥福を祈り法要を執り行います。
細かい解釈は国や宗派によって異なるので、ざっくりと説明しましたが、例えばチベット仏教では生まれ変わるまでの最大が四十九日で、もっと早く転生することもあるとされています。
でも、テーラワーダ仏教では、死んだら次の瞬間に生まれ変わっていると説かれます。それではよき来生のために故人の供養を行なうのは、大乗仏教だけのものでしょうか。
それについて、スリランカ・テーラワーダ仏教シャム派の僧侶、スマナサーラ長老は著書『死後はどうなるの?』(角川文庫)で、詳しく書かれています。
本書によると、テーラワーダ仏教も先祖供養をするが、その対象は餓鬼道に落ちた先祖限定だそう。なぜなら、天界に生まれ変われば清らかな波動を持っているので、人間の供養など気持ち悪くて受けられないし、地獄の生命の場合は、あまりにも強い苦痛のなかで生きているので、供養が届かないからだそうです。
初期仏教には中有という概念はありませんが、そういう「成仏していない霊」のことを餓鬼だと、自分が死んでいるか生きているかはっきりしない生命だと説明しています。どんな形であれ、その文化のしきたりで供養するならば、その人は「仏壇に私の写真と位牌を飾って、ローソクを立てて、お坊さんが読経している。なるほどそうか、私は死んだのか」とわかりますからね。自分の親戚や子供が悲しい顔をしていて、「私はここにいるよ」と言っても通じない。そこで納得していくのです。納得いくことによって自分の次の生がはっきりするのです。
つまり、少々主旨は違いますが、テーラワーダ仏教も葬儀をふくむ供養の大切さは、認めているのですね。
・供養できるのは餓鬼限定?
でも、供養が届くのは餓鬼道に落ちた先祖限定と言われても、六道(五道)輪廻思想に馴染みの薄い現代人には、違和感を覚える人も多いかもしれません。
私もそこを限定せずに、亡き父や先祖、そして生きとし生きるものの安穏を願うという素朴な思いで、まずは供養をしていければと考えています。(ここは私の勉強不足もありますので、おいおい学んでいければ……)
・テーラワーダ仏教も、死者供養のための葬儀を否定しない
長老の言葉で興味深いと思ったことは、その文化における伝統的な葬儀を否定しないで、死者の救済のために活用しているところです。
私の父も、宗教に関しては典型的な日本人でした。
深い信心はなくても、毎日仏壇にお茶を捧げ、先祖供養や法事も菩提寺のやり方で行なっていました。ですから、宗派の伝統にのっとった葬式や法事をするのは、長老の指摘された「自分の死を納得させる」といった見地からも、意味があるわけですね。
でも、供養は菩提寺に任せるだけでいいのでしょうか。
チベット仏教(密教)の実践者の方々のように、他の仏教の実践者も自分で家族の供養ができないのでしょうか。
そこで次回は、私がどのように亡き父の供養を考え行なっているかを、お伝えします。