昨日(18年2月13日)、柳田敏洋神父の指導による「初めての方の一日黙想会」に参加した。柳田神父はイエズス会修練長職を11年間務められつつ、ヨガや仏教のヴィパッサナー瞑想を習得されている。現在は、キリスト教の霊性と東洋の霊性の統合にも取り組まれ、心だけでなく東洋的な身体からのアプローチを模索。また、ヴィパッサナー瞑想をキリスト者のために、イエスに近づくという視点から指導されている。
著書『日常で神とひびく2』は、私のキリスト教に抱いていた厳しく近寄りがたい印象を鮮やかに砕き、自分のプラクティスと地続きのものにしてくれた。一度、黙想や瞑想をご指導いただきたいと思っていたが、今回、縁あって参加がかなった。
会場は、武蔵関のイエズス会無原罪生母修道院。まだ寒さが厳しく、庭のところどころに雪が残っているが、上空には春の気配に満ちた青空が広がっていた。
黙想はキリスト者の祈りのひとつ。
祈りと聞くと、神に何かをお願いするようなイメージがあるが、本来「祈りとは、心を神にあげること」(ダマスコの聖ヨハネ)だそう。さらに、柳田神父は「祈りとは神と響き合うこと」と説かれる。
祈りの時間は「私を神に差し出す時間」。その時に、なにが起ころうと、起こるまいと、無条件に神に自分を差し出す時間だそうだ。何か起きても、起きなくても、それでよしとする、瞑想に取り組むときの姿勢と通じるなぁ。
指定された聖書(詩編23 一番下の写真参照)の一節を、沈黙でゆっくり読み、心で言葉にふれて味わう。具体的には親しい友からの手紙のように、あるいは神に向けて語る心からの自分の言葉として、丁寧に読んでいく。
そうして、心に響いた言葉、注意を引いた言葉にとどまり、心にしみ通らせる。さらに、内的沈黙のうちに留まり、心に響いてくるものや、霊的感覚を味わう。
実際に行なうと、聖書の言葉を自分の知っている仏教や哲学、思想の知識で解読しようとする自分がいる。例えば、「主」は、ダンマ、真理、アートマン、宇宙の摂理、大日如来などにも置き換えられるのではないか、その方が自分にピンとくるなぁ、とかね。全然、自分を神に差し出していないじゃん!
そのことに気づき、まずは言葉だけに集中して読んでみる。それでも、心がザワザワする。
そこで、まず黙想に入る前にリラックスするために行った、自分の呼吸を深くゆっくりさせて、見守ることに戻った。(これは伝統的なやり方ではなく、柳田神父オリジナルの身体からのアプローチを入れた取り組みのようだ)
しばらく、呼吸を見守るうちに心が平穏になり、胸やお腹が暖かくなる。そこで、詩編23になかで特に心に残っていた最後の言葉について、ハッと気づいた。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
この主の家にとどまるとは、このような心の状態にいることではないか、と。
後の柳田神父との個人面談で、「本来の主の家はもっと深くて、これはお味見程度かもしれませんが……」とためらいがちに報告をしたら、肯定的な返事をいただいた。そして、感じること自体が大切で、そのように(お味見程度などと)制限することはないのだという主旨のことを話してくださった。
それを聞いて私は、ホッと心が緩んだ。ここで自分を卑下することも、ジャッジすることもなく、ありのままに話せばいいのだ。プラムヴィレッジのダンマ・シェアリングと同じように、安心して心から話せる場がそこにあった。
終了後のお茶会では、柳田神父は、先日朝日カルチャーで山下良道師と対談をされたことにふれ、他の宗教者と対話することで、より自分の信仰の理解が深まるという話をされた。対談では、エゴやアガペを、山下師の語る第○図や慈悲と照らし合わせて、考察を進められたそうだ。
それ私にとっても興味深いこと。同じように関心をもった人も多いのだろう、対談は大教室に補助席が出されるほど大盛況だったと聞く。
今回の参加者は15人前後。キリスト者でなくても参加は可能だが、私以外は全員がカトリックにしろ、プロテスタントにしろ、どこかの会に属しているか、もしくは近い将来洗礼を受けることを視野に入れている人だった。
そのなかに仏教実践者の私をあたたかく受け入れてくださったことに、感謝を述べたい。