コマメディア 〜史上最弱の仏弟子コマメ〜

雑誌、書籍で活動するライター森竹ひろこ(コマメ)が、仏教、瞑想、マインドフルネス関連の話題を紹介。……最弱なのでおてやわらかに!

ニャーナラトー師法話「新型コロナウイルス感染拡大の中で、どのように生きていくか」

  3月7日(土)に開催予定だったアチャン・ニャーナラトー師の瞑想会は、新型コロナウイルス感染拡大を考慮して中止になりました。中止は直前に決定したこともあり、参加予定者に向けて師に法話をしていただき、その音声データをダウンロードして聞けるようにいたしました。(参加申込者限定)

 この会では、あらかじめ参加者から質問を募りましたが、その中に新型コロナウイルスに関する質問がありました。師は回答で本当に大切なことを伝えてくださったので、ぜひ多くの方と共有できたらと思い、師に確認いただき主要部分をテキスト化しました。

 この時期をダメージ少なく、穏やかに乗り越えていく一つの指針として読んでいただけたら幸いです。

 

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質問 

「このところウィルスの話題で世の中がさわがしくなり、ネガティブな意見を耳に目にすることが多くなりました。皆が過剰に反応することなく、恐れを手放せるようお祈りしたいのですが、どうしたらいいでしょうか?」

 

回答(主要部分)

自分を正していく基準 〜ダーナ、シーラ 、バーワナー 

 

 いろんな話し方や、考え方があると思います。僕がいつも話しているテーラワーダというか仏教の切り口では、人が生きていくうえでどこを見て自分を正していくかという基準として、非常のわかりやすいものがあります。それがダーナ、シーラ 、バーワナーです。

 ダーナは普通は布施と訳されますが、もっと広く言うと「善いことをする」とまとめることができると思います。シーラは持戒ですが、もう少し広く言うと「悪いことをしない」、今回はこれも非常に大きなポイントだと思います。そしてバーワナーですが、普通は瞑想と訳したりしますけど、これも広く言うと「自分の心とどうつき合うか」です。まさに核心ですね。

 

 今の世の中で何があるのかと言うと、この方がおっしゃるように恐れや恐怖、不安、それから対立もありますね。この意見に賛成する、しない。この情報は正しい、間違っている。考えすぎ、考えが足りない……、人と同じようにコロナウイルスの話をしているけど、その捉え方、考え方が違う。意見の相違で喧嘩になるということも充分ある。

 今は、それこそ朝一のニュースから夜寝る前のニュースまで、関連する情報に囲まれています。世の中がコロナウイルスを通して、ネガティブにどっぷりつかっている。その中で僕らはどうやって生きていこうか、ということだと思います。

 

ダーナ 善いことをする 

 

ポジティブを志す

 ダーナというのは、まさしく「善いことをする」ことであり、つまりポジティブということなんですよね。一般に我々は無意識であれ意識的であれ、ネガティブに引っ張られてしまう傾向があります。特に今はそうですね。心配というネガティブもあれば、対立というネガティブもあるという感じで、直接的、間接的にあります。

 だから今こそ、コロナウイルスに関わることでなくても、意図的に普段以上にポジティブということを志した方がいいのかなとは思います。

 

許しを与える 

 今日は一つ、ダーナのなかの特別なものを見ようと思います。タイ語で「ハイ・アッパイ」という言葉があります。「ハイ」は与える、ギブですね。「アッパイ」は許すという単語です。ハイアッパイで「許してあげる」というタイ語の表現になります。

 結局、お布施というのは与えることで、文字どおり困っている人に物をあげる、席を譲る、ボランティアをする、あるいは優しい言葉をかけるなど、いろんなリストがあります。その中で我々が結構忘れている、あるいは気づいていないものに、「許す」というダーナがあります。

 特に今のような時は喧嘩をするまではいかなくても、イライラするとか、まさしく非難中傷するとか、「誰々のせいで」ということを結構やってしまいます。原因を人のせいにするつもりはないけど、みんな辛いから気がついたら「誰々のせいでこうなっている」と、上は政府から、病気になった人から、身近な人から、メディアから、家族から、そういうことをコロナウイルスであろうがなかろうが、残念ながら人間は普通にやってしまうかもしれません。そういうときにダーナの一つとして、ハイアッパイ「許すということを与える」があります。

 くり返しますが、必要とする人に物を与える、あるいは和顔施といって和かな微笑みを人に与えるとか、ボランテイァで人助けをする、満員電車のなかで妊娠されている女性がいれば席を譲るとか、そういうことは普通に我々は気づいているし、できればしたいと考えていると思います。もう一つ、今は許すというダーナがすごく大切かなと思います。

 

 

 結局、許すことで一番得するのは、本人なんですけどね。怒っている、恨んでいる、憎んでいる……他人のことであれ、世の中のことであれ、ひょっとしたら自分のことであれ、それを責めているというのは本当に辛い状態です。

 許すというのは、なかなかできないことなのは事実です。簡単なら、わざわざ言わないはずです。ですから簡単ではないですが、最低限今日のところは「許す」というのもダーナの一つだということを覚えておいてください。

 

 この時期にポジテイブというのは、すごく大切だろうなと思います。今言いましたように、いろんなダーナがあります。人助けをする、優しい言葉をかける、笑顔を贈る 、それプラス許す。それもひっくるめて、いつもより少しポジティブにもっていくくらいのバランスをとった方が、いい時期かもしれないですね。

 世の中がすごくネガティブというか、すごく緊張しているというのですかね。重い、きつい、難しいというのがあるので、そこは一人一人の受け持ちとしてできることはする。許す、ゆるめる、そういったボジティブな対応、平たい言葉だと楽しいとか、優しいとか、爽やかとか、そういうものの要素を意識的に持ってくるというのは、決して小さいことではないと思います。

 

 

シーラ 悪いことはしない

 

自分の言葉と行いを守る 

 それから、シーラですね。一つ目のダーナが「善いことをする」なら、二つ目のシーラは「悪いことはしない」です。持戒ということですが、まさに今これがすごく大事だと思います。こういう時期だからこそ、一人一人が試されていると言えます。
 

 しんどい時というのは、失敗する可能性がある。あまり言いたくないですけど、たとえば今の世の中ならマスクを買い占めて高い値段で転売するとか。あるいは、今日のニュースを見ていたら、詐欺みたいなことも出てきている。全く論外だといえることが、残念ながら生じています。
 

 しかしそこまでいかなくても、ちょうど コロナウイルスの感染から守るために手洗いをするように、同じように 自分の言葉と行いを守るということは、忘れたらいけないと思います。ほとんど責任という言葉を使ってもいいと思います。

 だから、先ほど言いましたが、対立がある、不安がある、そしてひょっとすると恐怖もある。そんな中で、もちろんコロナウイルスを広げるのは駄目ですけど、我々は残念ながら悪い言動を広げるというのを、普通にやってしまうかもしれないです。そういうことを広げないように「心にもマスクをする」 という自覚が、世の中ではなかなかないですね。

 

 

自分が取る情報をコントロールする

 ネットなど見ると大変だなと感じます 。おっかないですね 。見なければいいんですけど見てしまい、特にコメント欄などは3人ぐらい読んだら満腹になります(笑)。側から見ていると 巻き込まれすぎて重くなっている、あるいは収拾がつかなくなっている人も、けっこうおられるように感じます。もちろん反応は人それぞれなので、そのようなことに影響される人、パニックまではいかなくても「あ、これは大変だ!」となるタイプの人もいれば、逆に平然している人もいると思いますが。

 もし、ご自身が何かを読んで不安が増す、恐怖が増す、さらに訳がわからなくなるようなことがあれば、やはり自分が取る情報をコントロールした方がいいと思います。今時、情報量は莫大にあって、特にネット上はあまりにもあって、もちろん必要な情報もあります。でも、これは僕の完全な個人的な意見ですが、今回のコロナウイルスにしても必要な情報を得るには、たぶんそんなに時間はかからないですね。止め度もなく、あれもこれも読みあさるというのでなくて、ということです。
 

 

ネガティブな情報に対して防御する

 煽られているなあとか、盛られているなあと感じるのもが結構あるような気がします。ですから、もし恐怖心などが増えていくのがご自分でわかるようなら、ちょっと離れる。僕であれば、あえてあまり触らない。

 というのは、読めば影響されるんですよね。「自分は大丈夫」と言えるならいいですが、やはり嫌なことを聞けば残るし、気になることを聞けばその後も気になるわけですよね。パソコンみたいに「削除」と押せば、パッと消えるわけじゃないですよね。心に起こった影響というのは、何かしらの形で尾を引きます。

 まして、その影響を受けることが強いのであれば、それにどう対処するかというより、そこに行かない、触らないということで防御する。まさしくコロナウイルスから防御するように、情報に対してどう防御するか。

 コロナウイルスだけでなく、今のネット社会のなかで上手に生きるという意味では、取捨選択というより扉を閉める感じは、ある程度 必要だと思います。

 怒りっぽい人は嫌なニュースを集めてきて、よけい怒って盛り上がっている。不安になる人は、どんどん読んで不安を増していく。不思議なことですが、自分の傾向を助長していってしまっている。そこのあたりを、ていねいに忍耐強く踏み止まる。踏み止まるというのは、触らなくていい情報があるならそこには行かないという賢明な態度も必要かなと思います。

 そういうことも含めて、シーラということを言っています。特にこういう時期こそシーラというは言動の問題がとても大切なんですよね 。言葉と行為、世の中がちょっとアタフタとしているからこそ、より注意深く、我々がそのややこしいのをさらに広げることのないようにする。

 

 

バーワナー 自分の心とどうつきあうか

 

自分の心の状態に気づく

 僕たちがよく思い出すアチャン・チャー師の言葉に、「90パーセントは自分の内側を見なさい。残りの10パーセントだけ外(他の人)から良い見本を見て学ぶように 」というの があります。普通は、90パーセントかそれ以上、自分のことは棚において、他の人のことをああだこうだコメントしたり批判したりしているという感じですが、そうではなくて、 自分の中で何が起こっているか、自分がどう正すかということを見る。非常に地味ですが、こういう時間だからこそとても大切だと思います。

 

 三つ目のバーワナーは「瞑想」と訳される(あるいは「修習」とも)ことが多いようですが 、心そのものをどう扱うかというところですね。この質問をされた方は「過剰に反応することなく、恐れを手放せるよう」と書いておられます 。つまり恐れそのものに加えて、ネガティブな状況に過剰に反応するという問題もあるわけです 。そういう時に瞑想の力、必要性という点から言いますと 、まず自分の心の状態に気づくことがとても大切だと思います。

 つまり、先ほど悪いことはしない、シーラに気をつけたいと言いましたが、それ以前に自分の心の状態が何であるかに気づくのが第一歩であり、そこに気づくことで大半のことは直るといいますかね。

 恐怖心とか、不安とか、いらだちとか、嫌悪感とか、今の世の中においてかなりそういう要素が強いと思いますが、それを無くすというよりも、どれだけ自分がそれに影響されているのか、どういうものが自分の心にあるのかということに出会うことが、すごく大事だと思います。

 逆に言うと、それに気づかないで「誰それが悪い」とか、あるいは、 別に政府を擁護するわけではありませんが「政府がどうだ」とか、「地方公共団体の対処がどうだ」とか、もちろん意見として言うのはいいのですが、自分の恐怖心だとか、いらだちだとか、それにまかせて 言うのは、これは先ほどから言っているシーラ、つまり自分の言動からしてどうでしょうか。要するに問題を、山火事で言えば火事を広げているのと同じだと思いますね。

 ですから、それを自覚する一歩であり、一番大事なことである自分の心で何が起こっているのか。「不安を持ってはいけない」あるいは「怒りを消さなくてはいけない」というのも、ひょっとしたら違うかもしれません。つまり、自分の心の中にあるものを、あるがままに見るというのが、それこそマインドフルネスとかウィパッサナーとか、ここ何年か盛んに言われていることでもあるわけです。

 

 

「わからない」という居心地の悪さに付き合う

 もう一つ言いますと、こういう時 に不安とか、恐怖とか、対立というのは、あるのが当たり前、つまり避けられないこと と思うんですね。人間一人一人もそうだし、社会もそうだと思いますが、それがある中でどう生きていくのか。

 そういうものはあってはいけない、という理想論をお釈迦様の教えはあまりおっしゃらないんですよね。「こうあるべきだ」ではなくて、煩悩とか、三毒とかいう言葉を使われますけど、人間というのはこういう弱点といいますか、限定されているなかで、どうやって生きていくのか。その中でどうやって上手に、幸せに生きていくのかという、極めて現実的で実践的な教えであり、アプローチだと思います。

 だから、今の状況では不安ですとか、ひょっとしたら憎しみですとか、恐怖というのは、心の動きとしてはごくごくある話、あるいは当たり前の話だとすごく思います。

 

 このコロナウイルスの一つの大きな要素は、未知であるということですね。相手がはっきりわかっていると対処といいますか、こちらの態度、考え方も比較的わかりやすいのですが、象徴的にもウイルスというのは目に見えない。しかも中国で最初に発生したときは、状況がどのようなものかわからなかった。今もどれだけ広がっているのか正確にはわからない。ですから未知である、わかってないというのが、まさしく不安と繋がるところなんですね。

 でも、心というのは心配をするようにできていると、すごく思います。心配するのは辛いので、しないに越したことはないのですが、心というのはいつも正解が欲しいわけですね。あるいは、確かであってほしい、安心していたい、はっきりして欲しい、答えが欲しいというのは普通なんです。「未知なものは、はっきりしなくてはならない」、「検索して、答えを出さなくてはならない」となります。

 

 普通、我々が生きている中で、正解不正解の間に「わからない」というのがありますが、この中間の宙ぶらりんというのは、人間は心理的には慣れていない。あるいは好きでない。どうしても名前を付ける。「だからどうだ」というところに飛びついてしまう。わからないまま、はっきりしない、見えない、名前が付かないという状態に付き合うというのは、ある種、心の力がいると思います。

 普通はそれが嫌だから、「すぐにスマホで検索して答えが欲しい」、「邪魔者があればバッシングしよう」、「理解できない奴は敵だ、ここにいるべきでない」と、ちょっと単純化しすぎましたけど、その傾向はすごくあると思うんです。仲間か敵かしかない。だからわからない人は敵だ、グループに入れないみたいになっていきます。

 でも、そのわからない、見えない、何 だろうというのも、心の状態としてはしっかりあるんですよね、それに付き合うというのは、瞑想とかするとわかるかもしれませんが、けっこう忍耐強くないといけない。心はそういう不安定なところにいるのを嫌がり、答えを見つけようとする。でも「わからない」という居心地の悪さに付き合える心の強さは、こういう時にも必要だと思います。

 

 

自分の足元をしっかりさせる

 

 まさしく今の世の中にある雰囲気としては、わからないとい いうのが最初からあるんですね。さらにそれが積もり積もってきて、恐怖だとか、怒りだとか、欲求不満みたいなことにも重なってきていると思うんですけども。ですから、簡単な時ではありませんが、こういう時こそ僕たち一人一人の足元をしっかりしなくてはいけないんだろうと思います。試されている時期として受け止めることもできます。

 それに対して 仏教的なアプローチをするのであれば、ダーナ、シーラ 、バーワナーという三つの側面で自分の足元をもう一回ちゃんとする。それが世の中をしっかりサポートしているということです。

 ダーナは、ポジティブである、いいことをする、それに許すということも含みます。「嫌いだ」とか「不安だ」とか、我々の心は自然といろんなことを握りしめている可能性があるので、それも許す。

 そしてシーラ、自分の言動に責任を持つ。バッシングも含めて、自分の不安にまかせて、自分のいらだちにまかせて、さらなる中傷なんかをしない。たぶんやっている時は、本人はそうしていることに気がついていないように思えます。

 だからこそ、三つめのバーワナーということで、自分の心のあり方に帰る。今どういう心なんだ、どういう感じがあるんだ、どういう考え方をしているんだ、ということに正直に帰る、出会う。そうすることで、それに対して責任もとれる。そこをバイパス(迂回)して、やれ正解は何だという議論をするのは、ちょっと危ないなあと思います。

 

 きわめて当たり前のことを言いましたが大切なことだと思うので、もう一回確認の意味で、コロナウイルスの状況の中でどうありたいのか、というお話しをしてみました。