7月20日、ご帰国間もないアチャン・ニャーナラトー師の法話会へ参加するため、京都宇治の安養寺へ。
境内は吉水住職が丹精こめて育てられたハスの花が盛りを迎え、花のまろやかな香りが漂っていた。
法話は7月の満月の日にお釈迦様が初めて説法したことにちなみ、「初転法輪」から始まった。
主な話題は
四聖諦
サティ
中道
八正道の正見
業
慈悲喜捨の「捨」……などなど
どれも仏教の基本的なトピックスで、
何度も読んだり聞いたりして、頭ではわかったつもりになっていたこと。
でも、師のシンプルで核心をついた言葉に触れると、
そのエッセンスが頭での理解をこえて心に染み込んでくるようだ。
3時間半以上にわたるお話は、どこを切ってもダルマが顔を出す金太郎飴トーク。
一言も聞き逃すまいと、耳をかたむけている自分がいた。
そのなかから、いくつかのメモをシェアします。
真実(ダルマ)は言葉では伝えきれないとは言え、
ニャーナラトー師の言葉はそれだけでも読む人をハッとさせて、
心を変える何かがある。
仏教や瞑想実践者のお役に、少しでもなれば幸いです。
【ご注意】
以下の文章は、師の言葉そのままではありません。一参加者の森竹がメモをもとに、読みやすく(主観により)構成したものです。ですから、聞き違いや、捉え違いもあると思います。
また、過去の瞑想会でメモしている話題は、再度メモしていないものも多く、ここで紹介しているのは、あくまでも法話の一部を切り取ったものです。法話そのものを要約したものではありませんので、ご了承のうえお読みください。
・四聖諦
四聖諦は(テーラワーダ、大乗に関わらず)仏教の根本のようなもので、アチャン・チャーやアチャン・スメードーも四聖諦を盛んに説かれました。
四聖諦の苦集滅道は「苦しみはある(苦諦)、苦しみには原因がある(集諦)、苦しみには終わりがある(滅諦)、終わりへの道がある(道諦)」ですが、
「苦しみがある、苦しみがない(ノン サファリン)」で説かれることもあります。
お釈迦様は煩悩をきれいに無くせば問題はなくなると思い、とことん苦行をしました。
「削除して無きものにしたい」と。
でも、食べたい思い(食欲)を断食でなくすことはできません。
お釈迦様だけでなく、同じようなことを僕らもしています。
何か問題があれば削除しよう、無きものにしようとする。
滅道の「滅」は滅亡させる、消去するといったイネージの字ですが、パーリ語では「離れる」「手放す」といったイメージになります。
僕の言葉では「立ち位置が変わる」。
それが苦でない状態です。
楽の極みでも、苦を叩きのめすのでも、どちらでもない「苦しみと、苦しみのない状態」に常に帰りましょう。
(仏教に関する)いろんな説明で振り回されたら、四聖諦の立ち位置に戻る。
ここに帰ることを大切にしてもらいたいし、自分も大切にしたいと思います。
・サティ
仏教の教えは、サティをすごく大事にしています。
サティというのは「気がついている」ということ。
それだけで、立ち位置が根本的に変わります。
気づくという状態は、同時に手放す、離れるが起こっています。
(学術的に正しいかはともかく)「苦しみと、苦しみのない状態」は、「気づいていないか、気づいているか」です。
ですから、四聖諦とサティは同じところだと理解してください。
・中道
中道の本質は、徹底的にケンカをしない。
ケンカをしないとは、なんにもしないこと。
なんにもしないは怠けているではありません。
この場所はケンカ以前の場所です。
そういう意味でも、なんにもしない。
※ケンカをしない→好き嫌い、できるできない、多い少ない……などなどの、あらゆる対立から離れた立ち位置。
・業と捨、そして心を強くする
(法話会の質疑応答では、複数の方が職場の問題のある人に関する質問をされました。それに対するお話の流れのなかから、森竹が特に心に残ったほんの一部をシェアします)
業の法則は徹底的に公平です。
ズルをしている人は、100%その人にかえります。
ひどいことしている人は、業の法則で大変なことになります。
業は(「そんなことすると、ひどい目に合うぞ」と)人を避難したり、迷信でしばるためのものではなく、自分を正しいところに送り出すためのよいルールです。
ですから、自業自得とは人に投げかける言葉ではありません。
ここは仏教の教えで間違いやすい大切なところですが、業の法則で他人を攻めるのは一番あぶない使い方です。
ダンマを学ぶとは、すべて自分に向けること。
アチャン・チャーも「90%は内をみて、10%外をみる」と言われています。
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(伝統的な?)慈悲の瞑想では最後に「すべての生き物は、業によって存在しています」と唱えます。
慈悲喜捨の「捨」は、業の法則とも関係が深い。
心を平静に保つためにも業の法則を知り、自分をしっかりさせなくてはなりません。
「捨」は不治の病の子供をもったお母さんの気持ちによく例えられます。
なんとか子供の病気を治したいという願いは叶わない。
でも、自分の子供なので逃げられないし、涙にくれていることもできません。
ですから、「捨」の心でできることをします。
問題に対処するには、まず自分の心をしっかりさせる。
これが緊急事項です。
(日常生活における問題を)同時進行で対処していくのは大切ですが、それ以前に心を大切にしないと壊れてしまいます。
しんどければ、しんどいだけ心に帰る。
帰っただけで、心の状況は変わってきます。
距離感を持てる様になる。
そこは信じてもらいたいです。
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心を大切にとは言え、ブラック企業など社会の不正をほうっておけというのでは決してありません。
テーラワーダの教えは人を助けないと思っている人もいますが、それは誤解です。
パレスチナやロヒンギャの問題がどうでもいいではなし、(志のある在家の人は)やってほしい。
でも、そういう人こそ、強い心が必要です。
忍耐、勇気、慈悲…、これらが問題を最適に扱う力を与えてくれます。
そういった魂の強さを、仏教はサポートします。
ですから、しんどいことをしている人こそ、心を強くするためにも瞑想が必要です。
瞑想は苦しい状況で、心のキャパを大きくしてくれます。
一生かけて行うことです。