コマメディア 〜史上最弱の仏弟子コマメ〜

雑誌、書籍で活動するライター森竹ひろこ(コマメ)が、仏教、瞑想、マインドフルネス関連の話題を紹介。……最弱なのでおてやわらかに!

【報告】柳田敏洋神父ご指導の研修「8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想」に参加しました

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ここ1年ほど武蔵関の「イエズス会無原罪聖母修道院」に、柳田敏洋神父様の指導によるキリスト教的ヴィパサナー瞑想会をはじめ、勉強会、短期宿泊黙想会、さらには仕事として雑誌や書籍の取材などでずいぶん伺った。

 

キリスト教的ヴィパサナー瞑想は、キリスト者のために「イエスの心に近づく(アガペの人となる)」という観点から、聖書に基づいて行われている。

私はヴィパサナー瞑想はブッダの教えをベースに、苦しみを滅して自由を得る瞑想として行なっているが、同じ瞑想でも文脈が違えば、行き着く先も違うのだろうか。

ともあれ、「アガペ(無償・無条件に相手を大事にする)の人となる」ことを目指すのは、宗教を超えて人として共感すること。もう少しこの瞑想を深めることはできないだろうか。

そこで、3月3日から9泊10日にわたって行われる研修「8日間のキリスト教ヴィパッサナー瞑想」の参加を願い出て、許可をいただいた。

 

【注意】この記事は、柳田神父様に確認いただいた上で掲載しています。とはいえ、私はカトリックキリスト教の素地がなく、理解も浅いです。どうぞ、一参加者の感想としてお読みください。

 

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◆瞑想

実際に参加されていたのは、ほとんどが修道者(ブラザー、シスター)で、それに求道者(在家)がお一人。年に一度の黙想の研修の場でもあるため、非キリスト者は私だけだった。

 

参加者のなかには瞑想が初めての人も少しおられたが、みなさん日ごろから観想や黙想、祈りに馴染まれているため、いったん始めると場の深まりが圧倒的だった。

終了後、深い体験をシェアしてくれた人もいた。ああ、その体験をしたら仏教ではこう表現するけど、キリスト者はこう表現するのか、という新鮮な驚き!

 

柳田神父様はゴエンカ氏式のヴィパッサナー瞑想を修行されているため、鼻の下の呼吸による感覚に気づく「アーナパーナ瞑想」や、「身体の気づき(ボディースキャン)」をベースに指導された。

それに加えて歩行瞑想、見る瞑想、聞く瞑想、思考に気づく瞑想、さらにタイの森林僧院スカトー寺から広まった手動瞑想や、アメリカでキリスト教の文脈で行われているマインドフルネス・ワークなどなど幅広い実践が行われた。

 

慈悲の瞑想をベースにした「慈しみの瞑想」、さらにオリジナルの「アガペの瞑想」にもじっくり時間が取られた。

アガペの瞑想の文言は「〇〇さんが、アガペの人となりますように」「〇〇さんが、とらわれから解放されますように」と、心身の感覚やフィーリングにも気づきながら祈る。対象は私や嫌いな人などにも向けていく。文言自体も、もっとしっくりくる言葉があれば変えてOK。

 

1日三度の食事は、いつも「食べる瞑想」で食した。

接触感覚にはじまり、舌の動き、視覚、味覚、嗅覚、聴覚など集中する特定の感覚を、毎回指定された。瞑想の深まりとともに対象を絞っていくことで、その感覚器の神業とも思える繊細な働きにまで触れ、食べるという行為の不思議さ、完璧さに出会った。

私が普段行なっている食べる瞑想は、ずいぶん雑だったのだなぁ。

 

研修中は基本沈黙だが、講話やグループ面談などでは発言する機会があり、掃除やキッチン周りの奉仕(作務)中も必要があれば言葉で意思の疎通をするし、廊下で目が合えば微笑みを交わすことも。

(修行系?)瞑想合宿では定番の口はきかない、目も合わせないタイプの沈黙とは違い、聖黙という言葉がより近く感じられた。

 

◆講話

毎日行われた柳田神父様の講話も聞き応えがあり、目から鱗の連続だった。

ヴィパッサナー瞑想を通して東方教会の教えの恵みに気づかれた神父様の、教えの源流へと踏み込まれていく神学講義はとてもスリリング!

神、原罪、救い……私はとても浅い理解で、それらを誤解していたようだ。ごめんなさい。

 

さらにキリスト教の枠をこえて、手動瞑想などの「気づきの瞑想」を指導されている日本人比丘プラユキ師を、上智大学在学中に「解放の神学」の影響を受けたことなどを交えて紹介。

最終日には、全身不随の障がいを持ちながら、「気づきの瞑想」で苦しみから解放されたタイの仏教徒カンポンさんを、死期が近づいたときの言葉「痛む人はいない 病む人はいない "死なない人の死"があるだけである」とともに取り上げられた。

 

イエズス会無原罪聖母修道院」のHPでは、キリスト教ヴィパッサナー瞑想」について、以下のような解説がある。

 

キリスト教の視点からイエスの教えたアガペの心で「現実をあるがままに気づく」ことでイエスの「神の国」を見出し、心の平和と自由を育み、「神を愛し(大切にし)」「隣人を自分のように愛する(大事にする)」ことで「アガペの人」となることを目指す瞑想である。

 

カンポンさんは絶望的な状況から、気づきの(ヴィパッサナー)瞑想により心の平和と自由を得た、生きた証人といえる方。宗教をこえて、瞑想をする人を励ましてくれる存在といえよう。

 

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カトリックの修道者方と10日間をすごして、瞑想の時間だけでなく、全ての時間を瞑想(気づき、純マインドフル)モードで生きることが、ますます腑に落ちてきました。

日常に戻ってもその状態が自然と持続して、食事の時は自ずと食べる瞑想になり、洗濯を干す一つ一つの動作にも気づいていて、心の動きも一歩離れて見渡している。

 

私のような部外者に得難い機会を与え、素晴らしい指導をしてくださった柳田神父様に深く感謝を伝えたいです。

また、心よく受け入れ、ともに修練をしてくださった修道士、求道者の方々にも感謝を伝えたい。みなさんの真摯に打ち込む姿が、励みになりました。

そしてなにより、柳田神父様や修道者の方々を通してアガペの精神に触れることができたのは、大きな喜びでした。

 

今回の研修を通して、たくさんの洞察と恵をいただきましたが、まだ言葉にするには時間がかかりそうです。いや無理に言葉にする前に、まずは自分がどう在るかで示していければと。

 

 

※冒頭の写真は、日帰りの瞑想会で撮影したものです。