昨日はニチャン・リンポチェと藤田一照師の対談会「チベット仏教と日本仏教の出会い」の聴講で、古巣のほびっと村へ。
ニチャン・リンポチェは中国侵攻前のチベットで修行された最後の世代として、伝統保持に生涯をかけられるチベット僧。
一方、藤田一照師は実験的な坐禅会や、他分野の賢人方とのコラボを積極的に行い、曹洞禅に爽風を吹き込む注目の禅僧。
一見、対象的だが、仏教の核心が言葉を越えたもの(吉村先生いわく、“わけのわからないもの”)であることを確信されているお二人。対話は、時に対談者以上に情熱的な、吉村均先生(中村元東方研究所・専任研究員)を舵取り役に進行した。
前半は、仏教の修行のプロセス「聞・思・修」の最初の「聞」で、教えを自分の枠組みにはめ込んで聞かないためにも、その前にパラダイムシフトをうながすものが一ついるのではないか、という一照師の投げかけから始まった。それを受けて、師匠の存在の大切さや、「私にとって役に立つ仏教」への疑問へと、会話は深化。
後半は、テーラワーダの伝統では般若心経の「色即是空」は認められているが、「空即是色」は間違いとされることへの疑問から、満員の会場はさらに熱を帯びていく。
一照師は、生死の世界(色)から涅槃(空)に行く「色即是空」だけでは一方通行になり、そこから戻ってくる「空即是色」とセットである必然性を強調。
吉村先生は、ナーガールジュナ(龍樹)によると「空即是色」は現世と涅槃に違いがない、お釈迦様の最終的な境地を現した言葉だと解説。さらに、阿含経典が病人に与える薬であるのに対して、「般若心経」は病気の治った状態の話だと指摘。
対談の最後は、ニチャン・リンポチェの「般若心経は終着駅の話です。これからの人生は般若心経に絞ってください」という力強い言葉で締められ、一照師の導きで般若心経を全員で読経。テキストがないのに、多くの人がそらんじていたのは、さすがでした。
対談(鼎談?)は、大乗マインドでテーラワーダの実践を模索する私には、得がたいものだった。なかでも、今まで実践を通じて漠然と感じていたことが、「色即是空、空即是色」を巡る会話で次々と言語化され、目が覚める思いがした。
般若心経は大乗経典のなかでも特に古いものだが、テーラワーダと大乗を繋ぐカギが、ここにあるはず……
登壇されたお三人と、企画運営されたナワ・プラサードに高橋ゆりこさんに、深くお礼を伝えたい