9月3日〜4日に、日本印度学仏教学会の第67回学術大会が東京大学で開催され、3日の「特別部会(午後の部)」を聴講しました。
9 月 3 日(土) 午後の部(13:20 ~ 16:00)
1. 臨床仏教師の現状と展望 吉水 岳彦(大正大学非常勤講師)
2. 仏教の社会的活動評価の基準策定に関する試論 池上 要靖(身延山大学教授)
3. 止観研究の歴史とその現代的意義 蓑輪 顕量(東京大学教授)
4. 19 世紀の仏教学と釈宗演のセイロン留学 馬場 紀寿(東京大学東洋文化研究所准教授)
5. 近代における日蓮宗僧侶の海外留学 安中 尚史(立正大学教授)
6. 明治印度留学生の行動と思索―小泉了諦と善連法彦の体験― 奥山 直司(高野山大学教授)
1〜3が現代の仏教を、4〜6が留学僧から近代仏教を論じ、そして7〜8は総論、もしくは「大風呂敷を広げる」(石井先生談)といった構成です。
日本印度学仏教学会はインド学・仏教学を研究領域とする学会だけに、僧籍をもつ会員も多いそうです。でも、この日は研究者としてネクタイ姿で参加する僧侶も多いなか、トップバッターの吉水岳彦先生は法衣で登壇。
吉水先生は臨床仏教研究所研究員であるとともに、路上生活者の支“縁”活動などもされています。生病老死の苦しみに対応するお釈迦様の教えは、現実に苦しむ人の役に立つことができる、というスタンスで活動される吉水岳彦先生。法衣での発表は、仏教者としての心意気を感じました。
自身が関わっている臨床仏教師の現状と展望を説明され、「本来、臨床でない仏教はありえない」と力を込めます。ティク・ナット・ハン、エンゲージド・ブッディズム、中村元博士の『慈悲』など、個人的にも馴染みの深い話題が続き、共感をもって聞きました。
蓑輪顕量先生は、現代日本の仏教瞑想事情と、止観瞑想の日本での展開を解説。蓑輪先生は机上の研究だけでなく、仏教瞑想の修練を長くされているだけに、瞑想を語る言葉にもリアリティがありました。
また、90年代以降を詳細された仏教瞑想事情の紹介は、日本ヴィパッサナーサナー協会や日本テーラワーダ仏教協会の設立、プラムヴィレッジ・サンガの来訪、藤田一照師、小池龍之介師、地橋秀雄氏、鈴木一生師、プラユキ・ナラテボー師らの活躍、さらに宗教性を薄めたマインドフルネスの流布、日本仏教心理学学会、日本マインドフルネス学会の創設……と続きました。それは私が経験し、今も公私で関わっていることとも重なり、自分が日本の仏教瞑想の流れの中にいることを実感しました。(鈴木師は、まだご縁がありませんが)
馬場 紀寿先生は、はじめは「日本のパーリ語、事始め」といったテーマを考えていたそうです。発表のタイトルは「19 世紀の仏教学と釈宗演のセイロン留学」となり、留学先のセイロンでパーリ語主義と出会い、パーリ語を学んだ日本人僧・釈宗演の姿と、19世紀の世界の仏教学の事情などを、生き生きと伝えられました。
石井公成先生は「精密文献学と総合仏教学」というタイトルで、精密文献学の進展を紹介するとともに、総合仏教学の構築の必要性をあげられました。なかでも、コンピュータを利用した検索技術「N—gram(エヌグラム)」の紹介が興味深かったです。2つの文献をかなり正確にひらがなで比較することが可能になり、文献研究の進展が期待できそうです。
最後の下田 正弘先生のタイトルは「仏教学の方法と未来」。
仏教学の研究者として、まずは「自分が何をしているのかを、やみくもでなく進む方向を見定めていくこと」が大切だそうです。そうして研究の位置を明確にすることで「他者から発見される自己」になり、柔軟に他分野の人とも学問を生かし合える力が、これからは必要だと説かれました。
発表後の質疑では
「仏教学はあくまでも古典学だが、そのことが軽視されていないか」
といった指摘がありました。
仏教学は古典学という指摘には、ハッとされました。仏教実践者である私にとって、仏教は「現代に生きる智恵」です。でも、学問としての仏教学は、過去から継承され経典などのテクストによる文献学であることを、今更ながらですが、再認識しました。
そういえば下田先生が発表の中で、仏教と仏教学という言葉をしっかりと使い分けられていたことに思い至りました。